はじめに
クラフトビールからクラフトウイスキーの流れを経て、醸造所〜蒸留所が多く各地に建設されてきました。そしてそれ以上にクラフト〇〇が流行するうちに市場の目が既存の大手メーカーが造ってきた慣れ親しんだブランドよりも、面白い個性的な商品を追うようになりました。そのような状況下で、ジンを作るメーカーは飛躍的に増えました。
ワインなどとも違って収穫したての果実ではなく貯蔵された穀物や草根木皮から作るため、一年を通して原料を得ることができ、そしていくつかの例外はあれどジンには熟成期間が必要ありませんので休むことなく生産・出荷が可能なのです。
前回のクラフトウイスキーの回の最後に書いたように、ウイスキーが熟成を終えて商品化できるようになるまでの間をしのぐ、すぐ売り上げを立てる手段としての商品がジンです。
というわけで、今回から2回に渡ってジンの起源とその歴史についてのお話をいたします。先述のように、昨今では小規模の新規参入業者によるクラフトジンが話題ですが、以前よりマティーニ、ジントニックといった代表的カクテルのベースとしても安定した人気を誇ります。
ジンの起源とその定義〜ジュニパーベリーの酒の変遷
現代のジンの定義は各種の穀物を原料につくった蒸留酒にジュニパーベリーを浸して香りをつけ、さらに蒸留したもの、となっていますが、最初からこの形ではありませんでした。ジンの公認の発祥地は13世紀のフランドル地方・現在のフランス北部からオランダ南部までを含む北海に面する低地地域にて「イエネーフェル」として生まれたことによりますが、今回はそこまでの変遷を辿ってみたいと思います。
まずはジンには欠かせないジュニパーベリーは大昔から薬として使われてきた歴史があります。従って前半はジンというよりはそのアイデンティティであるジュニパーベリーがどのようにこの世界で用いられ、ジンの前身といえるジュネヴァへと変化してきたかを主にみていくことになります。
ジンは穀物を糖化・蒸留したものにジュニパーベリーを加えてつくられたものですが、ジュニパーベリーについてはローマの歴史家プリニウスもその著書「博物誌」においてその薬効成分について触れており、古代から中世にかけて甘いワインにジュニパーやセージ、ローズマリー、マジョラムなどのハーブを混ぜたものが避妊薬や堕胎薬として使われていました。
古代エジプトではジュニパーを乳香という香料、クミン、ガチョウの脂と一緒に茹で、頭痛の治療に使用していました。アラブ人もジュニパーの木から樹脂をとり、歯の痛みをとるのに使っていたそうです。
ギリシャの著名な哲学者アリストテレスもジュニパーは健康に役立つと考えていたと言われ、また初めて当時のワインを蒸留したとも言われています。
アリストテレスはマケドニアのアレクサンドロス大王の家庭教師を努めていたことでも有名ですが、アレクサンドロス大王の遠征によって築かれたアレクサンドリアはギリシア世界とアラビアイスラム世界の文明が融合されたヘレニズム文明の中心地となり、そこに建てられた研究機関ムセイオンは錬金術の研究が盛んに行われ、それはやがて蒸留技術や蒸留器の開発の礎となっていきました。
そうして月日が流れた8世紀、アラブの錬金術師ジャービル・イブン・ハイヤーン(721〜815)がアランビックと呼ばれる革命的な蒸留器を生み出しました。現在のポットスチルと呼ばれる単式蒸留器にまで連なる球根のような形状で、直系の先祖と言えそうです。ただ、アルコールを蒸留する方法を確立したものの、薬効成分を得るなどという特定の用途を考えたものではありませんでした。
しかしながら、このアランビックの発明以降、蒸留の実験は飛躍的に進歩し、さまざまな試みが行われるようになると同時に、その成果を記した文献も充実するようになってきます。
9世紀のペルシアの学者アル・ラーズィー(865〜925)は蒸留したアルコールを医薬品の一部とする「アクア・ヴィタエ」を考案しました。後のウイスキーの語源ともなる「命の水」という意味です。
これは病気の治療に用いられるのみならず、やがて気晴らしのために飲まれるようになりました。
その技術は文献に書かれることによりやがてヨーロッパに伝播し、医薬品の実験をしていたキリスト教の修道院へ伝えられます。
ジェラルディン・コーツが著書「クラシック・ジン」において「最初のプロトジン」と言うべき膀胱と腎臓の病気を直すためのジュニパーをベースにした蒸留液がこの頃の名もなき修道士によって考案されたことを記していますが、これがジュニパーベリーを使った最初の蒸留酒ではないかと言われています。
13世紀フランス南部のモンペリエ大学やアヴィニョンで教鞭をとっていたアルナルドゥス・デ・ビラ・ノバが著書「ワインの書」にて生きる力を与えてくれる効能が「アクア・ヴィタエ」にあることや、これに各種の薬草やスパイスで風味づけすることがあることを記しています。
14世紀にはジュニパーベリーの香りや焼いた時の煙が黒死病の「特効薬」とされましたが、これは全く効き目がありませんでした。
しかしペストによってヨーロッパの人口が半減し労働力が貴重となり商品化したため、農村部から都会に人口が流入し、お酒の商業的生産と酒場の誕生を促進しました。これはジンのみならず酒が西洋の大衆文化に浸透する契機となりました。
蒸留酒として最初に目をつけたのは当時のネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクとフランス北部の一部、ドイツの一部が含まれる)です。
1497年のアムステルダムの納税台帳にはブランデウェインつまり「焼いたワイン」(ブランデー)にかけられた消費税についての記述がありまして、課税されているということは嗜好品として飲まれていた事実を示します。
1551年にはアントウェルペン(アントワープ)でも初めて課税された記録があります。
翌1552年、フィリップス・ヘルマンニの「コンテスリイク蒸留書」には、蒸留したワインにジュニパーなどを加えた「イエネーフェルベーセンワーテル」、オランダ語で「ジュニパーベリー水」とでもいうべきお酒がアントウェルペンで誕生したとの記載がありますが、これはまだいわばブランデーベースなのでまだ穀物を原料としたスピリッツがベースになっている現在のジンとは違う形です。
それではいつから穀物の蒸留酒をつくるようになったのでしょうか?
16世紀はヨーロッパの北部が小氷期となり、葡萄が育ちにくくなる反面、ライ麦や大麦といった耐寒性の高い穀物が有利になりました。しかもスペイン、イタリアといったワイン生産国相手には貿易封鎖が行われることが多かったので、ワインを入手することは難しかったのです。
そこで民衆はライ麦や大麦に目をつけ、それで蒸留酒をつくることを覚えました。それはネーデルラント南部で大流行し、穀類はパンを焼くのに使用すべきとの理由から規制されることもありましたが、それはあまり守られなかったと共に、その蒸留業者がヨーロッパの別の地域、後のフランスやドイツなどに移住する契機ともなりました。
さらにオランダは17世紀に宗教や経済上敵対していたスペインの支配下にあったポルトガルからアジアのスパイスを入手するルートを奪い取り、それによってジュニパーの他にも蒸留酒の風味づけに使用するスパイスが安定的に供給されるようになりました。
1730年ころにはジュネヴァはレペルブラド、日本語で言うとトモシリソウというハーブとともに壊血病の予防に用いられました。以降、19世紀にはオランダのみならずイギリスにおいても海軍で支給されるようになったそうです。
シルヴィウス博士の「神話」
さてここで、シルヴィウス博士という人物についてお話ししておきたいと思います。
これまで見てきたように、現在のジンの前身となるジュネヴァは、大航海時代という世界の大きなうねりの中17世紀のオランダあるいは当時のネーデルラントがその中心にあった恩恵を受けることによって形作られてきました。
そんな歴史の中で、この人こそがジン、あるいはジュネヴァを最初に作ったと言われてきた人物がいました。オランダのライデン大学のフランシスクス・シルヴィウス教授。実際に2022年1月現在のWikipediaをはじめインターネットを検索してみてもこのシルヴィウス教授が1660年頃に熱帯性の熱病の治療薬としてジュネヴァを開発したとする記述が見られまして、当の私自身もバーテンダーになりたての頃はそのように学んだ記憶があるのですが・・・どうやらそれは誤りであるとの説も有力になってきています。
ベルギーのハッセルトにある国立ジュネヴァ博物館も、ジュネヴァはフランドル(現在のベルギーとフランスにまたがる地域)の低地地方で生まれたと明言しています。そしてそれを裏付ける証拠として、いくつか年代の辻褄の合わない史料があることが挙げられています。
シルヴィウス教授が生まれた1614年にはすでに穀物から作られた蒸留酒が存在しており、これにジュニパーを加えればジュネヴァとなるのですが、先ほど出てまいりました1552年の時点でのフィリップス・ヘルマンニ「コンテスリイク蒸留書」によるところの、ワインにジュニパーなどを加えた「イエネーフェルベーセンワーテル」が存在していることを考えると、穀物の蒸留酒にジュニパーを加えるようになるのにそれから100年ほど、穀物の蒸留酒が生まれてからでも50年ほどもかかるというのは、少し信じ難いということです。穀物から蒸留酒が作られたのなら、じゃあワインの蒸留酒でやっていたことを穀物の蒸留酒でもやってみよう、とすぐになるのではないでしょうか。これまで見てきたように、ジュニパーには優れた薬効効果があるとされてきていたなら尚更です。
シルヴィウス教授本人についても、ライデン大学の教授だった14年間に残した研究や文書にはジュネヴァに言及したものは実はひとつもないそうです。
さらにシルヴィウス教授が生まれる前の1609年、イングランドのサー・ヒュー・ブラッドが記した「貴婦人の喜び–その容姿、テーブル、クローゼット、蒸留機、美しきもの、ごちそう、香水、水で装飾するために」という長ったらしい名前の料理書がありますが、そこには「スパイスのスピリッツ」についての記述があり「クローヴ、メース、ナツメグ、ジュニパー、ローズマリーなどのオイルを浸出させた強く甘い水を、トロ火で蒸留する」などという現代のジンの製法かのような内容になっています。
最後に1623年、シルヴィウス博士がまだ9歳だったころ、イギリスの劇作家フィリップ・マッシンジャーによるジャコビアン時代、つまりジェームズ1世治世下の1603年〜1625年を舞台とした悲劇「ミラノの公爵」の第一幕第一場でグラッチョという登場人物が「ジュネヴァ・スピリッツ」について語っているそうです。しかもこのマッシンジャーはイングランド人ですが、元々はアントワープから80年戦争の際に逃げてきた人で、この時にジュネヴァがイングランドに持ち込まれたのではないかと言われています。
さて話を戻しましょう。こうして様々な形はあれど、18世紀の間まではネーデルラントにおいて葡萄や穀物の蒸留酒をベースにジュニパーなどで香り付けした、ジュネヴァが作られてきました。そして19世紀に入ると大きな変化が現れます。そうです、産業革命です。ベルギーではジャン=バプティスト・セリエ・ブルメンタールというフランス人が垂直連続式蒸留塔を開発し、飛躍的に生産量が高まります。しかしあまり品質は良くなかったようで、伝統的な蒸留業者は古来の製法を守った質の良いジュネヴァで対抗しました。しかしやはり価格競争には勝てず、かといって勝利し市場に出回ったのが粗悪なものということで結果的にベルギーのジュネヴァの没落をもたらすことになってしまいました。
一方、オランダでは、現在ではリキュールで有名なボルス社が1664年にジュネヴァを作り始めて以来、ハーブやスパイスを輸入する東インド会社との強固なパイプもあり大躍進を遂げました。デカイパー社など今日まで続くライバル企業もあらわれ、ベルギーやオランダでのジュネヴァの消費量は驚異的なものとなりました。
さあ、前編はこのあたりにしておきましょうか。
こうして少しずつ進歩してきて、ジュネヴァはひとつの蒸留酒としての足場を固めていったわけですが、現代のジンとは味の面でだいぶ異なるものです。ジンと呼ばれるのは16世紀以降にイングランドに渡ってから。次回の後編ではイングランドに渡ってからのジンの波乱の歴史と、現代のクラフトジンの流行についてお話いたします。
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